六月の雨の街の中で

         後章 ”雨と鴎と少年”
      
     街は眠る。深い眠りにつく。
    雨に濡れて鈍く光るアスファルト。雨に濡れた電話線はかすかに震えている。
    漆黒の闇にコールサインの秘密の白い閃光をストロボさせるは誰?
    
       コツコツ、コツコツ・・
    キツツキの幹を打つような音がビルの谷間にひびく。
    誰?・・
    濡れて光る敷石の鋪道を歩むは誰?
    白い杖の盲人二人。男と女の二つの白い杖。

       コツコツ、コツコツ・・
     雨に消され鈍くこだまする。
    どこかで聞いた音。あれは、河原に捨てた私生児の泣き声。
    過ぎ去りし悲哀の記憶。風雨でこすれ合う樹木の悲鳴。
    不幸な老婆のすすり泣きのように。
    風が吹く、見果てぬ幻島の死人のすすり泣きのエコウなのさ。

     過ぎゆきし歴史と過去の街から、白い風が駆け抜けてゆく。
    白い街。それは青春の街。血と暴力と性と硝煙の匂いのする街。
    雨に塗りこめられた鋪道。はりつめた感情がはじけほどかれ、ビルの
    谷間にひろがり放射する。
   
    野良犬がずぶ濡れになって疾駆する。火急を告知する飛脚人のように。
    雨がふり降りつづける。暗い風がざわめく。犯罪者はめざめる。
    犯罪者の心の妄想に点火するは誰?
   
     暗い木陰の墓地。恨みを残して死んで逝った人々の白骨の燐光が、チロチロと青白い火を放つ。
    犯罪者の心に散らばるカーバイト。ほどよい湿気を含んでいる。
    さあ点火の臨界点はもうすぐ。
    誰、誰が点火する。荒れ狂う闇夜、百鬼夜行の魔性供の道に、かがり火をかかげろ!!
    雨がふり降りつづける。夜の底に白い光が射す。
    
    新聞の三面記事の犯罪少年は悪夢をみたのさ。キツネがついたのさ。
    どんな少年も一匹の眠れるキツネを飼っているのさ。新聞は昨日も明日も告げるだろう。
    永劫に少年の犯罪をにぎにぎしく語るだろう。

     六月の雨は降りつづける。そぼ降る雨。濡れた紫陽花。花びらは遠くに過ぎゆく少年のおもかげ。
    雨よ雨よ、少年の心に涙の雨が降る。
    恐山のイタコよ、イタコよ。少年の胸に張りめぐらされた蜘蛛の巣のような悪霊を祓ってくれたまえ。
    おどろおどろしい太古の原始林へ追放したまえ。
    
    雨におおわれたアパートの六畳の一室。少年の心に雨が降りつづける。
    
    少年は見た。
    葬儀の花輪が突然吹き狂った風雨で倒れたことを。
    昨日、アパートの隣の主人の葬儀があった。
    涙を流したのは小学生の娘と三毛猫だけだった。
    酒と太陽で赤銅色に焼けた日雇労務者の孤独の死だった。
    葬儀車は悲しみの素振りも見せず火葬場へ向かった。
    アパートの二階に住む新聞配達少年。孤独と悲哀のジャズを聴いている。
    音量いっぱいにして窓辺から葬儀車の吐き出す白い煙を見送った。
    
     少年はその夜、汚れた壁に張られたピンナップの少女を想い浮かべながら自慰を二回した。
     
     犯罪者の心は震えている。皮を剥ぎ取られ実験台にピンで押さえられている雨蛙のように。
    赤く剥きだされた心臓の鼓動がぴくぴくと震えている。
    うっ血した血管からほとばしる血しぶき!!。
   
     少年は二階の窓をあけた。
    遠く、はるかな暗い海は雨に濡れて光っている。夜の海を伝わって潮の匂いと鴎の鳴き声と潮騒の
    流れが部屋に充満する。少年は鼻腔を大きくしてその匂いを嗅いだ。港湾に停泊する商船や漁船の明滅
    する灯火がふと心に点火した。胸の底に眠っている淡く遠い記憶がよみがえってきた。
     
     六月の渚に漂う鴎や潮けむりの匂いを過ぎ去りし美しい想い出と一緒にみつめることができた。
    少年は何度も何度も反芻した。美しい幻の島のようだと。・・・
    
     六月の雨に濡れた海面に、鴎が白い航跡を描いて飛翔する。白い余韻を脳裏に想い浮かべると、
    階下の庭の木蓮の仄白い匂いが漂っていた。
    
     少年はおもった。
    窓を開けたまま眠ろうとおもった。

     ”カモメのいない海なんて共同墓地とまったく同じさ・・・”
     そう小さくつぶやくといつのまにか、静かな眠りの中に落ちていくのだった。・・・


           (了)

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